河合蘭著「出生前診断~出産ジャーナリストが見つめた現状と未来」
2013年4月2日にレビューを投稿した「卵子老化の真実」の著者の河合蘭さんの最新刊
「出生前診断~出産ジャーナリストが見つめた現状と未来」を読みました。
[amazonjs asin=”4022736127″ locale=”JP” title=”出生前診断 出産ジャーナリストが見つめた現状と未来 (朝日新書)”]
今回、このレビューの投稿をするにあたり、周囲からかなりの反対がありました。理由は、私自身の出産が終わるまで、本件については触れないほうがいい、というものでした。それでもあえて、私は本件について、当事者だからこそ言えることというのがあるのではないかと思い書きます。友人の皆様、心配してくださって本当にありがとうございます。
私は、周産期医療関連の仕事に携わり、7年ほどになり、また生命倫理に関していろいろなセミナーや委員会などに参加してきたため、この本に書かれている内容の多くについて、すでに既知のものでした。NHKクローズアップ現代で出生前診断を取り上げた時にも、取材協力をしています。(生殖医療に関する倫理・法については、以前、上智大学で実施されたコミュニティカレッジの内容をブログにまとめてありますので、こちらをご参照ください。)
今回の妊娠で、自分自身が出生前診断を受ける前に、さらにいろいろと調べ、パートナーとしっかりと議論をし、自分たちのポジショニングを明確にしてから、検査を受け現在に至っています。ポジショニングを明確にしていても、検査結果に心が揺らぐ時があります。この周産期という領域の仕事をしてきて、たぶん一般の妊婦さんよりもはるかに多い知識を持っていた私でも、出生前診断を経て、多くのトラブルを抱えながら妊娠を継続している現在、不安にさいなやまされています。そして、「このような状態でNIPTなどを推進していく日本の産科医療体制はどうなっているのか?」と思っていました。
また、私の周囲で高齢出産で妊娠した友人の全員が出生前診断を受けています。彼女たちは、多くを知らないまま、受けるのが当然と思い、受けていました。そして、その結果が出るまでの間、ものすごく悩んでいました。病院で高齢だからという理由で「こういう検査があります」と1-2ページの紙を渡され次回の診察までにやるかやらないかを考えて来いという現状に本当に疑問を抱いていました。
もちろん、知る権利というのは両親にあると思います。私は、適切な知識をベースに、知った上でどう対応をするのか自分自身で決めるというのが、一番いいと思っていますので(賛否両論あるのは分かっています。あくまでも私はそういう考え方です)、NIPTをはじめとする出生前診断がある、それはどういうもので、それを受けるか受けないかは自分で決める。そして、それを決めるにあたってのカウンセリングなどのサポートはできれば整っていた方が良い。と考えています。
これから出生前診断を受けようと考えている方は是非、この河合さんの本を読んでいただきたいです。周囲が受けているからという理由や、なんとなく不安だからという気持ち、あるいは、医師・看護師に勧められるままにNIPTを含む出生前診断を受けることによるデメリットもあるのだと知ってほしいです。また、その結論が出るまでの間の不安とどう向き合うのか、結果が出た後にどうしたらいいのかを考える時間は、検査を受ける前に必要だと思います。
卵子の老化について世の中に石を投げてくれた前作のように、先進国の中でも大変グレーな扱いとなっている日本の出生前診断について、こうして書いてくださった河合蘭さんに感謝しています。タブーだから語らないでうやむやにしてしまうのではなく、すでにこのような技術があり、胎児の状態が分かってしまう。それを前提にこの社会はどうやってそれを取り入れるのか、入れないのか。そこの議論が湧きあがってほしいと思います。
私自身がなぜ出生前診断を受けることになったか、その経緯について書きます。
数度の流産を経て、昨年秋に妊娠しました。子供は欲しかったけれどもずっと妊娠継続が出来なく、昨年春に流産したときに、「子供はいてもいなくても2人で幸せに暮らしていけるよね?」とパートナーに聞いた時には、「そうだね。でもできるなら欲しい」と言っていました。だから、出産可能であれば、神様が私たちに子供を授けてくれるなら、ちゃんと産むことを考えようと思っていました。
42歳での出産は、高齢出産です。健康な42歳の出産でもトラブルは多くあると認識しています。数度の流産を繰り返しているだけでなく、子宮筋腫、子宮内膜症などの婦人科疾患をはじめ、重度の喘息やアレルギー、過去の病歴などから、妊娠自体が非常に難しいことは理解していました。また、妊娠できたとしても、障害を持つ可能性があることも十分に理解していました。それでも、私たちの元にやってくる子がいるならば、それは本当に私たちが産み、育てるべき子供なのだと思っていました。(この辺はロジックを超えたもはや感情論です)
それゆえ、自分たちのところに来てくれた子供のために、できる準備は最大限にしたいという気持ちで私は出生前診断を受けたいと思っていました。パートナーは少し違ったポジショニングでしたが、出生前診断を受けることには積極的でした。
心拍が確認を取れた時に、医師から、高齢であること、合併症などがあるため、今回の妊娠も、12週まで行く可能性は1.8%以下と数字で出されました。その数字をどう自分の中で捉えるのか。そのことは、「ロジカル」と言われている私でも非常に解釈に苦しみました。
欲しいと思っていた子供がやってきてくれた。それでも継続の可能性は1.8%。これを多いとみるのか、少ないとみるのか。どう考えればいいのか。
つわりは5週から酷くなってきていたので、また、他の人よりもお腹が目立つようになるのが早かったため、自分の体の中には新しい命がいるのだとはっきりわかりながらも、この子がどうなるのかは分からないという状態で生活しなければなりませんでした。この1.8%という数字を知ることがいいことなのかどうなのか。自問自答を繰り返しましたが、知ってしまってもどうすることもできない。12週まで生き延びてくれることを神様に任せるしかない。7週間、毎日のように「赤ちゃんは無事だろうか?」と心配でした。
望んでいた妊娠でしたが、「お互いの家族を含む周囲には妊娠していることを言わない。12週過ぎるまでは喜ばない。」というのが、パートナーと私とがその時に出した結論です。
妊娠する前から、12週を超えることができたら、出生前診断を受けるとパートナーと決めていたので、病院から私が申し出る前にNIPTについての紙を渡された時には、すぐに予約を入れました。また、専門医による超音波検査の予約を入れました。
先の理由から、私は子供に何があったとしても、流産・死産をしないならば、中絶はしないというスタンスでした。しかし、パートナーは、NIPTで分かる13,18,21トリソミーの可能性があると診断が出て、羊水検査で確定診断が出た場合、13,18の場合は、彼自身が精神的に崩壊するので、中絶してほしい。21トリソミー確定診断の場合は、その子が60歳まで生きると仮定して、我々がどこまで資金や支援体制を用意できるのか。そのシミュレーションの結果で決めたいという意向でした。
そして、21トリソミーの場合、どのくらいのお金が必要か、どういう支援体制が必要なのか、お互いの仕事はどうするか、二人でいろいろと調べ、話し合いました。
13,18,21トリソミー以外で、なんらかの異常が見つかった場合は、子供の生命力を信じて、その子供が生まれてきてくるのであれば、出来うる限りの体制を整えて産む。胎児治療をどこまでするのか、出産後の手術等の医療介入をどうやって決めるか、などもその時に話し合いました。そう決めてから、NIPTや胎児超音波検査などの出生前診断を受けて行きました。
2人で事前にしっかりと話し合う中で、それぞれがどういう考え方をしているのか。どういうところで譲歩でき、どういうところで絶対に譲歩できないのか。何が根本的な問題なのか。など、議論できたことは、私たちにとって、家族を作っていく課程では非常にいいことだったと思っています(彼がどう思っているかは知りません。あくまでも私の意見です。)また、センシティブな内容でも、きちんと情報を集めて整理して、議論ができるという関係だということも、今後子供を産み、育てていくであろう時に出逢う様々なトラブルに、同じように対応できるのではないか?と考えられるようになりました。
しかし、2人で議論しつくした上でアクションをしていっても、検査途中でいろいろと問題が発覚していくと、当初のストーリーラインとは違うリアクションをしている自分もいました。検査で、臍帯動脈が1本しかなく、30%の確率で子供に障害が出る、と言われた時にも、大変不安で、取り乱しました。
70%は問題なく生まれるのだから、子供がどう育って行くのかをしっかりと見ながら、打てる手を全て打って、子供が生まれてくるのを待とう。
そうパートナーから言われても、できれば健常児が欲しいと思う私の気持ちは、どうそれを処理していいのか悩み、ふと気づくとスマホで「臍帯動脈 障害」やPubMedでSUA(single umbilical cord artery)など医学論文を検索していました。
子供に異常が見つかれば、私たちは全力でそれについて調べ、医療従事者などと相談し、どうやったら子供にもっともいい環境で育てていくのか考え、行動に繋げていくのだと思います。しかし、そこに至るまでには、いろいろな不安や葛藤を超えていかねばならないことを、改めて感じました。そして、その時に、病院にはカウンセリングの体制はまったくなく(私が行っている病院にそういう科はあるのですが、NIPTなどのフォローで忙しくってそこまで手はまわっていない状態)、忙しい産科医は数分の診療時間しか取れない中で妊婦とその家族の精神的サポートまではできないということをはっきりと理解しました。
自分で自分の気持ちをどう処理し、問題とどう向き合うのか。知り合いの助産師の方々や、医療関係者の方々にコンタクトをし、状況・状態についての知識を仕入れ、心療内科の先生に相談をしたりして、私たちは前に進んできています。
スクリーン上に胎児が映るので、医師は異常があれば何気なく情報共有してくれているのだと思いますが、それを全て知ることがはたしていいことなのか。知る権利はあるけれど、どこから知るべきなのか。何か確定してからだと遅すぎるのか。それとも、早い方がいいのか。
答えを出すことはとても難しい問題です。このような気分的にもジェットコースターにのったドタバタの半年を経て、私たちカップルは、知れることは出来る限り知り、その状況に合わせて自分たちでもいろいろと調べて、私たち家族という単位で最善のアクションを起こそうというスタンスでいます。
この本の第4章P172に「置き去りにされた産む人の救済」という項がありますが、現在の産科臨床現場の忙しさを見ると、それは仕方のないことだと思います。世の中で出生前診断についての議論が湧きあがれば、その周囲に新しいマーケット(マーケットという表現が正しいかどうかは議論の余地がありますが、ビジネス的観点から行くとマーケットと表現するのだと思いそう書きました)が生まれてくるのではないでしょうか。
だからこそ、この本が、世の中に出ることに、大きな意義を感じています。大変長文になりましたが、是非、河合蘭さんの「出生前診断」を読んで、そして、自分たちはどうするのがいいのかを考えてみてください。一人一人が「知り、考え、発言する」ことで、私は世の中の在り方は変わってくると信じています。
コメント ( 0 )
トラックバックは利用できません。
この記事へのコメントはありません。