テヘランでロリータを読む
最近、仕事が忙しかったストレスに任せて本を大量購入していたため、書庫がパンクし、リビングにも、玄関にも、トイレにも、そして、キッチンにも本が山積みになっています。置く場所が無いから階段にまで積み上げていたら、とうとう、危ないからやめなさいと怒られてしまいました。そして、とにかく読み終わったもので、保存しないと決めたものはブックオフに売るように、スペースができるまで図書館から本を借りない、友達から本を貰わない、自分で本を買わない、この3つを守るようにと、お達しがでてしまいました。
がーんっ!!
そんなわけで、もともと乱読気味だったのに、さらに拍車がかかっている状態。
今日は、アーザル ナフィーシー の「テヘランでロリータを読む」をお風呂で読みました。
内容(「MARC」データベースより)
イスラーム革命後のイラン、大学を追われたひとりの女性知識人は、「ロリータ」「グレート・ギャツビー」などの禁じられた小説を読む、女性だけの読書会を開く。監視社会の恐怖のなか、精神の自由を求めた衝撃の回想録。
ロリータを読み、それについて議論している内容は、私はそうはその本を読まないと思うところももちろんあるけれども、何よりも、規則に縛られ、監視の目を逃れることができない中で、人がどう自由でいられるのかについて考えさせられるし、また、自分がやっていることは本当に正しいことなのか、自分に常に問うて生きよと言われているように感じました。
以前ここに私は本を通じて著者や自分と対話しながら本を読むと書いたけれど、本の読み方や感じ方は人それぞれにあると思います。どんなメッセージでもいい。心をつよく揺り動かされるものが、新の書物と言えるのではないかと、この本を読みながら思いました。
ところで、話は飛びますが、p.156のこの1行は、わたしのためにある言葉だと確信しました。
「小説を読むということは、その体験を深く吸い込むことです。さあ深く吸って。それを忘れないで」
そう、本を読むというのは、ただ単に知識を吸収するだけでなく、体験を吸い込むことなんです。
#後ろで、本を大量保有する言い訳に使わないようにとの声がしますが、無視(笑)
(総合評価:★★★★☆ なんのために本を読むのか?自分がやっていることは果たして正しいのか?それを問うてくる本です。)
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