上智のコミカレ「生殖医療・倫理・法」 第三回「ヒト胚研究の現状」

第三回は町野先生の「ヒト胚研究の現状」でした。

本日の内容は以下の通り。

  • ヒト胚研究の倫理性
  • 禁止か許容か
  • 日本の対応
  • ”一本の細い道”なのか?

まず、体外受精が可能にしたことは何か?という点でのレクチャーでした。このあたりは、生殖医療を仕事にしていたので、医学的にはよくわかっていたのですが(厚労省より)、法務省としてどう見ていたのか!?ということがよくわかっていなかったので、厚労省と法務省の両方から見た観点での「体外受精が可能にしたことは何か!?」というのは、非常に勉強になりました。省が違うと見方が全然違うんだ。。。と、当たり前なことではあるのですが、ちょっと驚き。

今年の春まで、再生医療の仕事をしていたので、こちらも、医学的にはいろいろとわかっている件なのですが、そのあとは、体外受精技術が可能としたヒト胚研究についての言及がいろいろとあり、こちらは、倫理的問題についての議論が、医学側にいた人間としては、「そういう見方されてるんだ!」と新しい発見。

特に、生殖補助医療との違いに関しては、同じに見てはいけないという町野先生のご意見には、今まで同じように考えていた私としては(そして多くの生殖医療と再生医療の両方にかかわっている人間は同じように考えているに違いない)、納得の議論の展開でした。

ヒト胚の倫理性で、まさか、カントの「目的自体(zweck an sich)の定理」が出てくるとは思わず。日本ではほとんどされていない議論のため、私自身ほとんど理解していなかったのですが、欧米では当たり前の議論だそう。カントの提言命令はヒト胚研究にどのような意味を持つか?という問いかけで、どっきりしました。

その後、ヨハネ・パウロII世(私にとってのパパ様)のカトリックの反対意見である「受精のときから新たな生命が始まる。それは父のものでもなく、母のものでもなく、独自に成長する新しい人間である」は、カトリックとして教育を受けてきた私には新いものではなく、しかし、改めてここでだされると、「宗教が支える人間の価値観」を考えざるを得なくなりました。

禁止か許容かでは、ドイツ、イギリス、フランスなどの西欧諸国の法律と照らし合わせている点が、私にとっては新しい。生殖の仕事をしていたときには、2002年のデータが最新だったけれども、こうして出されると、根本的課題を考えてみることになる。

そして、それに対する日本の対応として…他の問題でもそうなんですが、あまりにも「あいまいな日本」を繰り広げていくところに違和感あり。町野先生がつけていた「外国人にはもちろん、日本の通常人にも理解できない、日本の生命倫理規制の方法」というサブタイトルからも分かるように「あいまい」すぎて「どうとでもとらえられ」すぎて、気持ち悪い。

ぁ、先生はきっとこういうところをあげたかったんだなぁとは分かるのですが、割り切れない分、気持ち悪さ感が残り、そして、それが「考えろ!」というメッセージなのは、理解できるのですが、理解できるのと、それを咀嚼できるのでは違います。

この後は、クローン技術規制法・特定胚指針について議論していくことになるのですが、気持ち悪いが残ったまま、進んでいったので、(そして仕事がらみですでに知っていることばかりだったので)、さらっと通り過ぎた感あり。

最後に、生殖補助医療指針について、各国の違いあり。それが、”一本の細い道”につながっていくのですが、脳死がヒトの死か?と同じ議論の展開がここでも繰り広げられる可能性を理解し、割り切れない感いっぱいで授業は終わりました。

生命倫理って深い…深いだけでなく、考えても答えのでないことを議論しているのだと、あらためて思いました。

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