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Photo哲学関係の本を読んでいて、急に見たくなった映画「サルトルとボーヴォワール 哲学と愛」。

相変わらず仕事終わりの深夜に見ております。

あらすじ(映画.comより)

事実上の夫婦として公私にわたり影響を与えあった哲学者ジャン=ポール・サルトルとシモーヌ・ド・ボーボワールの知られざる愛憎の軌跡を描いたドラマ。
1929年、パリ大学で出会ったサルトルとボーボワールはひかれ合い、大学を卒業後に共同生活を始める。サルトルは互いに愛し合いながらも、他の関係も認
め合うという自由恋愛を提案。結婚か独身しか女性に選択肢のない社会に疑問を抱いていたボーボワールは、その提案を受け入れるが……。ボーボワール役に
「シャネル&ストラヴィンスキー」のアナ・ムグラリス。

 

哲学者同士として影響を与えあい、”世紀の恋人”と呼ばれた2人の出会い、すれ違い、葛藤をサルトルではなく、ボーヴォワールの視点から描いた作品。

これを見ているのは、今このタイミングで見ているのは、ボーヴォワールの視点から描かれているからなんですが、このくだりを説明すると長くなるので、飛ばします(笑)

大学で出会い、卒業後に共同生活をはじめた2人。サルトルはボーヴォワールに「君をとても愛してる。未来も」と告白しながらも、作家である為に他の関係も認め合うという“契約結婚”を提案するのですが、このあたり、「女ったらしの男の都合のいい提案だよなぁ」と、毎回思います。

父が母を召使いの様に扱う封建的な両親に疑問を抱いており、また、親友の死を経て、カトリック教会への不信感を抱いていたボーヴォワールは「一生結婚しないわ。誰の召使いにもならないの」と話し、サルトルの提案に承諾する気持ちも分からなくはないけれど、”契約結婚”以外の部分で、お互いに絶対隠し事をしない、お互いの常時を含めてすべて包み隠さず相手に教えるという契約が後に彼らの人生に波乱を呼ぶことになる。

私からすれば、結婚しなくてもいいけれど、私は相手の情事なんか知りたくない。あくまでも私の場合ですが。。。^^;;

自由の哲学者として、この契約結婚も隠し事云々も必然を語るところが、サルトルのおかしいところだよなぁ。。。

ボーヴォワールはあんなに聡明なのに、なぜにこの子供のような男を丸ごと引き受けちゃうのかしらん。

まぁ、ボーヴォワールも自由に恋愛するから、それはそれでいいのだけれど。

お互いにそれぞれ大事な人ができるたびに、サルトルとボーヴォワールの人間関係が微妙にすれ違っていき、とげとげしていく様子が描かれているので、哲学者も所詮人間だよなぁと思ってしまいます。

ボーヴォワールはその後、講演で出向いたアメリカで作家オルグレンと深い仲になり、オルグレンは「彼は僕の様に君を愛せない」と告げ、指輪を渡します。それでも、彼をアメリカにおいてパリに戻ったボーヴォワールはサルトルとの生活を再開するのですが、オルグレンも彼女を追ってパリにやってくる。ボーヴォワールのは、1980年のサルトルの死まで生涯の伴侶として、いまでいう“事実婚”のパートナーとして支え合ったのですが、オルグレンの指輪をはめ、サルトルの横に葬られる。

ボーヴォワールが選ぶ“愛” はどちらなのか。

哲学者として人生のパートナーとしてはサルトルを、恋人としてはオルグレンだったんだろうなぁ。。。

と思います。

ボーヴォワールの、「女は女として生まれるのではなく、‘女’になるのだ」という言葉はあまりにも有名。

ボーヴォワール自身も、女性の幸福のために、それまでの社会の因習や偏見と闘い、自由恋愛から同性愛まで、現在における新しい愛の形を実践した。

これは画期的なことだし、実践できる勇気と決意は素晴らしいと思います。

同じ女性として、こういう芯の通った強い生き方に憧れます。

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