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Photo1934年ドイツ映画で、ショパンを主人公にしている映画「別れの曲」が、ショパン生誕200周年を記念し、上演されるということで、観てきました。
#当時日本では同じ監督が作ったフランス版が上演されたそうですが、今回はドイツ版です
ソロコンサートでショパンプログラムをやることから、この春から相当ショパンに関しては調べてきて、沢山の書籍と楽譜を読み込んできたので、エチュード第三番が別れの曲と呼ばれるゆえんになったこの映画を観ることが出来たのはとてもラッキーです。
映画を映画として楽しむのであれば良かったのでしょうが、ショパンの伝記的映画と呼ばれているのに、伝記とはかなりかけ離れていて、「音楽家の恋愛物語と音楽家としての旅立ち」のフィクションと言われたら良かったのになぁ、と、思いました。映画終了後、目の前に座っていた老夫婦が、「ショパンは彼女を捨ててサンドに走ったなんて...」という会話を繰り広げていて、思わず、「それって違いますよ」と言いそうになってしまいました。(言わなかったけど)
なぜ別れの曲と呼ばれるようになったかは理解できたので、まぁ、よしとしましょう。DVD化されてないらしいので、ホッとしています(だって、実際の伝記とはかなりかけ離れているから。。。)

あらすじ(goo映画より)
一八三〇年の春、ポーランドの青年達の間にはロシアに反抗し祖国の独立運動が密かに劃策されていた。終日をピアノに向って精進するフレデリック・ショパンの胸にも祖国愛は火と燃えて、時到らば白い手に剣を取る決心も固められていた。ショパンの音楽教師エルスナーはショパンの芸術のためにこれを憂え何とかして彼をパリへ送ろうと考え、ショパンの愛人コンスタンティアを訪れて自分の考えを打明けて力を貸してくれる様たのんだ。危険な故郷に置いて彼の天才を若く散らせるより当時の文豪、詩人音楽家が集まっている芸術の都パリへ行ったらショパンは必ず成功するにちがいない。ショパンが成功したらエルスナーは必ずコンスタンティアをパリへ連れて行くと約束した。かくてショパンが故郷を離れる日、コンスタンティアは涙でこれを見送った。パリへ出たショパンはエルスナーの懸命な骨折でやっと小さな音楽会を開く事が出来た。当時パリ一流のピアノ店を持っていたピアニスト、プレエルが開いてくれたのだった。その当夜ポーランドの独立運動はのろしを上げた。その号外を見たパリの名士は同情の心から無名ポーランド青年ショパンの演奏会に出席した。ショパンは重い心を抱いてピアノに向ってミニュエットを奏しはじめた。しかし故国の戦いを聞いた彼は一向に興が乗らない。彼の求めるのはもっと烈しい強い曲なのだ。ショパンは遂に彼の情熱をピアノに打ちまけた。血みどろの戦いのエチュードが場内に拡がる、場内は青ざめた、こんなむき出しな情熱を今までパリの人は聞いた事がなかったのだ。演奏が終わった時ある者は烈しく拍手し、ある者は呆然と顔を見合せた。主催者のプレエルは憤然と席を立った。しかしジョルジュ・サンドはショパンの天才を知り当時名声の高いフランツ・リストに彼の後援を頼んだ。オルレアン侯爵婦人邸に於てリストの演奏会が催された夜、ショパンも招かれて出席した。演奏が始まる頃になると何故か豪華なサロンの燭灯は一つずつ運び去られた。薄暗の中に美しい音楽が流れ出した。こんなに美しくピアノを奏でられる人はパリにリスト一人しかない筈だ。しかしその時サンドがかかげた灯にほのかに浮び上ったのはピアノに向ったショパンとその側に立って静かに聴き入っているリストの姿だった。今こそパリはショパンを認めた。リストの友情とサンドの情熱とに育てられてショパンの芸術は今さん然と輝き出したのだ。ショパンの成功を知ってパリへ出て来たコンスタンティアは彼がジョルジュ・サンドと恋仲であるのを知り、淋しく彼をあきらめて故郷へ帰った。


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