Quand Je Vois Le Soleil ~ラ・ピエトラ 愛を踊る女~
バレエを踊っていたことがあるから、そして、余命を宣告されたことのある身から、思わず観てしまったフランス映画。
「Quand Je Vois Le Soleil」(私が太陽を見るとき)が現題ですが、日本語訳ではなぜか、「ラ・ピエトラ 愛を踊る女」になっています。バレエ映画というよりは、とってもフランス映画。
シノプスは、Uni Franceによると下記の通り。
愛し合う二人、ラファエルとマルゴ。だがある日、二人はキャリアと芸術の頂点に達したエトワールダンサーのマルゴが不治の病に冒されたことを知る。絶望と怒り、諦めと抵抗に苛まれる中、何の手がかりもなしでどうやって歩むというのだろうか、必然と仮面は落ち、それぞれが本性を現さざるを得なくなる、あの言葉に絶する道のりを。この状況下で極限の道を取る以外に他の選択の余地がない、大いなる愛により結ばれたラファエルとマルゴは、本能の命ずるままこの愛を生き抜こうとする。一人には全てが終わり、もう一人には全てが可能でもう一度やり直しがきく、未知なる世界に身を沈めて。このことを受け容れ、選択の余地もなく、諦める、そんなことはマルゴにはできない。病が進んで肉体が彼女に背く一方、ラファエルがきっと別な女を愛するだろうという考えを受け容れて行こうとするマルゴ。拷問により奪われたこの未来に何とかしがみつきたい彼女であったが…。”
27歳でパリ・オペラ座のエトワールに登りつめたマリ=クロード・ピエトラガラが初主演した映画で、余命数ヶ月、死の直前まで踊ることを選んだマルゴの人生を描いたものです。バレエシーンがもっとあるかなと期待したのですが、あまりなくて残念でした。
死を直前にして、残された時間を戦って生きるのか、あるいは、延命して生きるのか、そのどちらを選ぶかで、人生に対するその人の主義が現れるのだと、そして、主義を貫きとおす人生は素晴らしいと思わざるを得ない、そんな映画でした。思いつめた表情で、激しく踊る彼女の姿はとても美しいです。
なぜとてもフランス映画だと思ったかと言うと..
- 娘に嫌われるためにわざと冷たくあたるのですが、その陰で彼女へのビデオレターを作りつづけるのマルゴ。でも、そのビデオレターが、「自己中」以外の何ものでもなく、エゴをさらけ出すビデオなのです。こんなのを見てと娘に言っても、それは困るんじゃないかなぁ...と思わざるを得ない内容。同じような映画でMy Lifeというマイケル・キートンとニコール・キドマンの映画がありましたが、ビデオ・レターを作るのでも、アメリカ人とフランス人はここまで違うのか、と思う一面でした。
#私がフランス人に偏見を持っていることは間違いありませんので、60%引きで読んでください - 夫に浮気を促したはずなのに、夫が実際に浮気をしていることに気付くと、夫の頭をピストルで打ち抜こうとするその行動。愛しているから他の女に奪われたくないと必死になる気持ちはわかるけれど、その前に浮気を促しているだろう...と思わなくもありません。
- 日本人にはないだろうなぁ、と思ったのが、夫が気分がころころ変わる中、献身的に看病をするのですが、その裏で、浮気を楽しみ、女と逢瀬をするシーン。やっぱり、愛の国なのかしら?
- マルゴは最後までガンに立ち向かうのですが、目はくぼんで、どこから見ても疲れた女。そんな彼女は、死のにおいを消すために香水をかけまくるのですが、最後まで女でいたい、生き抜きたい、そんな気迫がスクリーンを通して見えました。やっぱりフランス人?
個人的には、フランス語の現題となった(と、私が勝手に思っているのですが)、朝焼けを見ながらマルゴがガラスに顔を近づけるシーン、たった一人で命の重さと向き合う彼女の孤独の美しさに感動しました。
話は飛びますが、私が死を宣告されたのは、伝染病で、急性だったため、2日前だったのですが、数ヶ月あるといろいろ考えちゃうんだろうなぁと、思いました。2日だと、何を考えるヒマもなく、あまり現実味もないので、なんとなく乗り越えてしまいました。
死の宣告は受けたものの、意識ははっきりしていたので、その時にひたすら考えたのは、とってもくだらないことでした。大学の期末試験最中だったので、受けてない試験をいつ受けよう? ということ、そして、好きな人がいるけれど、その人にどうやって会って、自分の気持ちを伝えたらいいのか?ということでした。2日しか生きられないといわれてるのに、ホントにバカですよね...
そして、2日は生き延びたものの、衰弱がひどく何時死んでもおかしくないといわれていたのに、無理を言って、病院から実家に戻してもらいました。どうせ死ぬなら、実家の自分のベッドの上で死にたいと医師に頼み、病院からは3時間の車の移動中に死んでも責任はもてないと言われたそうです。
そんな状態にも関わらず、その夏、インターンとして働く予定になっていた日本の会社になんとしてでも行くんだと言い張って、その日までに元気になるんだと信じていた自分の楽天さが、今思うととても怖いです。その時どうしても日本に行きたかったのは好きな人が日本にいて、その人に一目会いたいという気持ちがあったからなんですが、そんなことが生きる原動力になるって、私ってホントに単純にできてるなぁ、と、映画を観ながら思いました。
新学期が始まってから分かったことなのですが、伝染病でクラスメートの6名が死亡。私を含む十数名が入院。そのうち学期があけて大学に復帰できたのは私1人だったそうです。
テストの結果が出ていなく、卒業の単位の確認をしに、担当教官に会いに行ったのですが、その時に、私の顔を見た担当教官がものすごくびっくりして、「生きてたの?死んだと思ったからテスト採点してないので、受けなおして」といわれたことを強烈に覚えています。
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